PRORTECT ALL LIFE

POPE IN JAPAN 2019

教皇について

教皇フランシスコ 略歴(バチカンサイト、biography)

アメリカ大陸から初めて選出された教皇、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオは、アルゼンチン出身。2013年3月のコンクラーベ(教皇選出選挙)当時は76歳であった。このイエズス会士のブエノスアイレス大司教はアメリカ大陸全体では著名な人物であるが、素朴な牧者として教区民に愛され続けた。彼は、同教区で奉仕した15年間、司教専用車は使わず、公共交通機関で各所に移動した。

「ここの人々は貧しく、わたしもそのうちの一人」と何度も言い、アパートに住み、自ら食事を作ることにしたと話していた。彼は、あらゆる人にいつくしみと使徒としての勇気を示し、家の扉を開けたままにするよう、自教区の司祭たちにいつもアドバイスしてきた。教会に起こりうる最悪なこと、それは「ドゥ・リュバック(注:1896-1991、フランス人枢機卿、神学者)が霊的荒れ野といったもの」、すなわち「自己中心になること」であると、彼はさまざまな機会に言っている。さらに、社会正義について語る際には、『カトリック教会のカテキズム』をまず取り上げ、「十戒」(注1) と「真福八端」(注2) をあらためて読むよう、人々に呼びかけている。彼が抱く思いとは、次のように単純なものである。——キリストに従うなら、「人間の尊厳を踏みにじることは大罪」であると理解する。

その控え目な性格————ブエノスアイレス大司教に任命されるまでの経歴には、ほんの数行の記述しかない————にもかかわらず、2001年に同国を襲った過酷な経済危機の際には強力な姿勢をとり、彼は一つの基準点となった。

■アルゼンチンでの誕生、そして司祭に

ホルヘ・ベルゴリオは1936年12月17日、イタリアからの移民の子としてブエノスアイレスで生まれた。父マリオは鉄道会社で働く計理士、母レジーナ・シボリは5人の子どもを育てる献身的な妻であった。化学技術者として学業を終えた際に司祭職へと進むことを選び、ビジャ・デボートの教区神学校に入学。1958年3月11日にはイエズス会の修練院に移った。チリで人間学を学んだ後、1963年にアルゼンチンに戻り、サン・ミゲルのサン・ホセ大学で哲学の学位を取得し卒業。1964年から65年にはサンタ・フェのインマクラーダ大学で文学と哲学を教え、1966年には、ブエノスアイレスのサルバドール大学で同じ科目を教えた。1967年から70年の間は、サン・ホセ大学で神学を学び、教授資格を取得した。

1969年12月13日、ラモン・ホセ・カステジャーノ大司教により司祭に叙階される。1970から71年の間には、アルカラ・デ・エナレス(スペイン)でイエズス会内での養成を受け、1973年4月22日に終生誓願を宣立。アルゼンチンに戻り、サン・ミゲルのビジャ・バリラリの修練院院長、神学部教授、イエズス会の管区顧問、大学での講師も務めた。

1973年7月31日、イエズス会のアルゼンチン管区長に選出され、6年間務めた。その後大学での仕事を再開し、1980年から86年の間には、サン・ミゲルで主任司祭を務めつつ、再びサン・ホセ大学で教鞭をとった。1986年3月、博士論文を書き上げるためドイツに渡り、その後、長上によってブエノスアイレスのサルバドール大学に派遣され、さらにコルドバ市のイエズス会の教会に、霊的(注:祈りの)指導者・聴罪司祭として派遣された。

■ブエノスアイレスの司教に

側近の協力者としてブエノスアイレスに彼を招いたのは、アントニオ・クァラチノ枢機卿である。こうして1992年5月20日、教皇ヨハネ・パウロ2世は彼をブエノスアイレスの補佐司教に任命する。6月27日、司教座聖堂において同枢機卿により司教叙階を受けた。モットーには「あわれみ、そして選んだ」のことばを選んだ。

司教としての初のインタビューは、小教区報「ベツレヘムの星」に掲載された。まもなく、フローレス地区の司教代理に任命され、1993年12月21日には大司教区の総代理に任命された。こうしたことを経て1997年6月3日にブエノスアイレスの協働大司教となったことは、なんの驚きも与えなかった。それから9か月足らず、クァラチノ枢機卿の死を受け、1998年2月28日に、同教区大司教と、アルゼンチンの首席大司教(注:アルゼンチンの第1位にある管区大司教)を引き継いだ。

■枢機卿になる

3年後、2001年2月21日の枢機卿会議において、ヨハネ・パウロ2世は彼を枢機卿に任命し、サン・ロベルト・ベラルミーノが名義教会として与えられた。このとき彼は、信者たちが枢機卿親任式を祝うためにローマに行くのを止め、その旅費を貧しい人に差し出すよう呼びかけている。アルゼンチン・カトリック大学の総長である彼には、『修道者のための黙想』(1982年)、『使徒的生活(注:キリストの弟子として生きる生き方)に関する考察』(1986年)、『希望のための考察』(1992年)といった著書がある。

2001年10月、司教の奉仕職に関する、世界代表司教会議(シノドス)第10回通常総会において、総書記に任命された。これは、9・11同時多発テロのため米国に残らなければならなくなったエドワード・マイケル・イーガン枢機卿(ニューヨーク教区)に代わり、直前に委嘱されたものだった。シノドスにおいて彼は、「司教の預言者的(注:神の意志を現代世界に伝える)使命」、司教が「正義の預言者」であること、教会の社会教説を「たえず説教し」、「信仰と道徳のことに真正な判断を表明する」司教の務めをとくに強調した。

そうした中、彼はラテンアメリカにおいて著しく人気の的となっていった。にもかかわらず、地道なアプローチや厳格な生活態度は決して緩まず、ほとんど「苦行者」だという人すらいた。こうした質素な精神をもって、2002年にはアルゼンチン司教協議会会長就任を断った。しかし3年後には会長に選ばれてしまい、2008年にはさらに3年任期で再任された。そうした状況の中で、2005年4月に、教皇ベネディクト16世が選出されることとなるコンクラーベに出席した。

■四つの宣教目標

3百万人以上の人口を有する教区であるブエノスアイレスの大司教として彼は、一致と福音化に根ざした宣教計画を立案する。それには四つの目標があった。開かれた兄弟的な共同体、信徒による指導的役割の担当と情報の共有、街の住民全員を対象とする福音化の働き、貧者や病者の支援、である。彼はブエノスアイレスを再福音化しようと計画し、「そこに住む人、その構造、その歴史を考慮に入れた」。司祭と信徒に、ともに働くよう呼びかけた。2009年9月、アルゼンチン独立200周年にあたって連帯キャンペーンを開始し、2016年までに200の慈善施設を設立する予定で計画を推進した。また、2007年のアパレシーダ会議(注:ブラジル・アパレシーダで開催された、第5回ラテンアメリカ・カリブ司教協議会連盟総会)のメッセージに衝撃を受け、「ラテンアメリカの『エバンジェリ・ヌンチアンディ』(注:教皇パウロ6世による宣教に関する使徒的勧告、1975年刊)」と評するほど、それに多くを期待していた。

ベネディクト16世の退位に伴う使徒座空位が始まるまで、彼は教皇庁の典礼秘跡省、聖職者省、奉献・使徒的生活会省、家庭評議会、ラテンアメリカ委員会のメンバーであった。

そして2013年3月13日、教皇に選出された。

(注1)
【十戒(じっかい)】
わたしはあなたの主なる神である。
(1)わたしのほかに神があってはならない。
(2)あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
(3)主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
(4)あなたの父母を敬え。
(5)殺してはならない。
(6)姦淫してはならない。
(7)盗んではならない。
(8)隣人に関して偽証してはならない。
(9)隣人の妻を欲してはならない。
(10)隣人の財産を欲してはならない。(『カトリック教会の教え』285-6ページ)

(注2)
【真福八端(しんぷくはったん)】
「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(「マタイによる福音書」5・3−12、日本聖書協会 新共同訳)

おもな活動